歴史的合戦
戦国時代には数多くの合戦が行われました。
数百人単位の小規模な争いから数万人単位の大規模なものまで様々でした。
そのような合戦の中でも、歴史を左右することになった重要な合戦について紹介します。
戦国時代の幕開けのきっかけとなった大乱である。
当時の室町幕府将軍は8代将軍の足利義政であった。
義政は政治に興味がなかったため早い段階での引退を考えており、弟の足利義視を次期将軍に指名した。
しかし、指名の直後に実の子である足利義尚が生まれてしまった。
このため、義視派と義尚派の将軍後継争いが生じて、その争いに有力守護大名が乗っかってきたのが「応仁の乱」なのである。
西軍総大将は山名宗全で東軍総大将は細川勝元であった。この大乱は11年もの間続いたが勝敗はつかなかった。
つづきはこちらから。
まだ無名であった尾張の織田信長と駿河の大大名であった今川義元との戦い。
この合戦は兵力でいえば信長が圧倒的に不利であった。
さらに無名の信長にとって、東北地方の覇者・今川義元は強大すぎる敵であった。
しかし、信長は義元が休憩していた本陣を奇襲することに成功して、見事に義元を討ち取ったのであった。
これをきっかけとして、信長の名は一躍全国にとどろき織田家は急速に勢力を拡大していくのであった。
つづきはこちらから。
武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川家康に奪われていた長篠城を取り返すべく行軍を開始した。
これを知った家康は同盟者である織田信長に援軍を求めた。
この戦いで織田信長には秘策があった。
それは馬防柵と鉄砲である。
戦国最強と言われていた武田軍の騎馬隊を馬防柵で足止めしている間に、鉄砲で勝負を決めようというのである。
ただし、それを実行するには問題があった。当時の鉄砲は連射ができなかったため、その間に攻撃を受けてしまうのだ。
しかし、信長はそれを解決すべく「三弾撃ち」という作戦を考えていた。
これは1列目が発砲して2列目は点火姿勢をとり、ラストの3列目が弾を込めるというものであった。
この画期的な戦法によって連射を可能とした織田・徳川連合軍は武田軍を圧倒して勝利を収めた。
長篠の戦いをきっかけとして、織田信長は天下統一の夢をより身近に引き寄せた。
つづきはこちらから。
川中島の合戦は武田信玄と上杉謙信との戦いであり、合計して5回も行われた。
その中で最も華々しい合戦が4回目の遭遇戦である。
この遭遇戦では戦国史の中でも稀な大激戦の一つであり、勝敗こそつかなかったものの両軍におびただしい数の犠牲者が出た。
そんな川中島の合戦のきっかけとなった人物は村上義清であった。
信玄に次第に領土を奪われていった義清は、越後にいた謙信に助けを求め、それに応じた謙信が義清の代わりに信玄を討とうと決意したのだ。
ちなみに、織田信長が桶狭間の合戦で今川義元を討ち取ったのは、4回目の川中島の合戦である遭遇戦の1年前のことであった。
つづきはこちらから。
関ヶ原の合戦は1600年9月15日に今の岐阜県関ケ原で行われた。
東軍の総大将・徳川家康の兵力8万に対して、西軍の総大将・石田三成の兵力は8万5千であった。
さらに陣形的にも西軍が圧倒的に有利なものだった。
誰が見ても西軍の勝利と考えただろう。
しかし、家康には秘策があった。
あらかじめ西軍の有力武将に手紙を送りつけて東軍へ寝返ることを約束させていたのだ。
その代表が西軍の小早川秀秋である。つまり、関ヶ原の合戦の勝負は戦う前に決していたといえる。
合戦後の1603年に家康は征夷大将軍の位に就く。
この2年後には将軍職を退き、息子の秀忠を2代目将軍とした。
これによって、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示したのだった。
つづきはこちらから。
江戸幕府体制が始まって天下の覇権は徳川家のものであった。
しかし、大阪城には豊臣秀頼とその母・淀殿がいた。
家康は後顧の憂いを絶つべく、1614年の冬に豊臣家を滅ぼすことを決意した。
こうして始まったのが「大阪冬の陣」であり、この合戦では大阪城の堀をすべて埋めることを条件に講和が成立した。
豊臣家としては少しでも時間を稼いでおきたかったのである。
この後、1615年の夏に戦国最後の合戦である「大阪夏の陣」が幕を開けた。
合戦当初、家康は堀を持たない大阪城を落とすことはたやすいことだと考えていた。
しかし、豊臣軍の武将は士気が非常に高く徳川軍は苦戦をしいられた。
特に、真田幸村の戦いぶりはすさまじく、あまりの猛攻に家康は一時死を覚悟したといわれている。
そんな大激戦の末、大阪城は落城し天下を統一した豊臣一族は滅亡することになった。
大阪夏の陣の後も家康は豊臣色の一掃を図った。
豊臣秀吉が神として祀られていた京都東山の豊国廟を破壊したのだ。
また、家康の息子の徳川秀忠は家康の思想を引き継いで、焼け落ちた大阪城の跡地に盛り土を施した後、豊臣時代に代わる新しい大阪城を建設している。
大阪夏の陣の後に、家康は「元和偃武」という言葉を発表した。
この偃武という意味は武器を収めて使用しないということである。
つまり、元号を「元和」に変えると同時に大規模な軍事衝突はもうなくなったということを宣言したのだ。
つづきはこちらから。
スポンサードリンク